それは、数ヶ月前のこと。
桜の花がちらちらと舞う、春。
「――はじめまして、です」
木々の緑も、花々も、空の色や頬をくすぐる風の暖かさ、全てが少しずつ、ほんの少しずつ。
まるで、眠りから覚めるみたいに、動き出して。
「今日からアンネリーでアルバイトとして働かせてもらうことになりました」
それと一緒に、オレの心の中の何か、も。
小さく、小さく、動き始めた。
「よろしくお願いします」
君に、恋をした。
【嬉しかった、とても】
触れた水が、ぴりっと指先を刺す。
眉を寄せてから、思い切るように、じゃばっ、とその手を進めた。
手首まで浸るその冷たさに、感覚が遠のいていく。
勘だけを頼りに手繰り寄せて、持ち上げた。
「冷てえー!」
自分の手元の茎の束を小刻みに振って、水を振るい落とす。
手入れ用の入れ物に移し終えると、じんじんと痛む指先が冷たさに赤くなっているのが見えた。
ぴっぴと指先の水を払って、隣にいるに目をやる。
「先輩、ギブです。ギブアップ!」
の目の前には、手入れ用の入れ物と仕入れのときのバケツ、ちょうど半分ずつのガーベラ。
やっぱりオレと同じように、指先を真っ赤にして。
はーはーと、その赤に息を吹きかけていた。
「なっさけねえなあ。頑張れー、あと少し」
「ううう…この思い切る瞬間が過酷でならないです」
「花屋アンネリー、だろ?こんくらいで参ってちゃ仕事になんねーぞ、これからの季節」
だから、頑張れ。
そう伝えると、は意を決したように、ぐいと腕まくりをした。
「…行きます!」
頷いて、ちゃぷり、と、はその小さな手を水に浸していく。
頼れる勘もないは、オレの数倍の長さをかけて、そのガーベラを束にして、引き上げた。
「つ、冷た…」
「おっし、二重丸!」
にこり、と笑って見せたら。
はにかむみたいに、ふわ、と、は頬を緩ませて、笑った。
はい、と、笑って頷いた。
きっかけは、本当に些細な。
そう、今みたいに、はい、と頷いて笑う、そんな些細な仕草だった。
春先、アンネリーに入った、新人バイト。
、と自己紹介をしたそいつは、羽ヶ崎の生徒だと店長から聞いていた。
「、だっけ?今何年生だ?」
「2年です」
「へー、2年生かあ」
並んで基本の手入れの仕方を教えるの指先は、慣れないのと緊張してるので、動きがどうにもぎこちない。
力を込めるたびに、肩に触れそうで触れない位置でさらさらと揺れる髪は、細く、柔らかに見えた。
「オレも羽ヶ崎だったんだ」
「わ、そうなんですか!」
「おう。今は大学2年だから、入れ違いだったんだな」
「へえー。なんだかちょっと嬉しいです。先輩なんですねー」
「そうなるな。若王子って、まだいるか?」
語尾を少しだけ伸ばすその話し方に、ちょっとのんびりした奴なのかなあと考えながら、
手元からちらりと視線を上げて見たの横顔は、歳より少し、大人びて見えた。
――大人びて、見えた、のに。
でも次の瞬間、オレを振り返って、そして、
「はい!知ってますよー」
と、笑って頷いたその顔は、とても人懐こく、暖かで。
ちょっと幼い印象も受けるその顔は、まるで、冬の間、心待ちにしていた春風みたいだった。
その顔に、心がうずいた。
恋、だった。
大抵の場合、第一印象なんてのは後から振り返ってみるとあてにならないもんで、
とっつきにくそうだと思ってた奴と気づけばよくつるむようになっていたり、
逆に付き合いやすそうだなと思った奴とはその後ほとんど喋らなかった、なんていうことはしょっちゅうだ。
一目惚れも然り。
中学時代、初めて隣の席になった女の子。
ちまちました背丈とかくりっとした目とか、初めて見たその日にかわいいなーと見惚れて、まだ幼かったオレは単純にこれが恋だと考えた。
けれど、違った。
数ヵ月後、気づけば目で追うようになっていたのは、窓際前から2番目の女の子。
背も大きいほうだったし、目はたれ目だったし、自分が好みだと思っていたタイプとは、かけ離れた子だった。
だから、初めての経験だった。
違った、だけは。
その、少し語尾が伸びる口調どおり、はマイペースでおっとりした奴だったし、
いつまでたっても、はい、と頷くその笑顔に、オレの心のどっか、わずかに動く。
それどころか、日に日に、好きになる。
大人びた横顔も、花をまとめるコツがまだつかめていないその小さな手も、
たまにこぼす弱音も、その後、必ず息を吸って力を入れて前に進もうとする芯の強さも。
そして何より、笑って頷く、その顔に。
もうオレは何度も何度も、恋をしている。
アンネリーの帰り道、夕日に染まるうろこ雲はとても綺麗に光る。
一緒にあるく小さな影に、秋だなあ、と。
呟くように伝えれば、は空を仰ぐ。
ちらりと隣を盗み見れば、はのんびりと、
でも、目や耳、もしかしたら鼻や皮膚でさえ空を感じようとするみたいに、全身で空を仰いでいた。
「寒くなりましたもんねー」
「だな。アンネリーで2度目の嫌な季節の到来だ」
「私は4月からだから…ええと、7ヶ月目の試練、ですね」
ため息混じりに、はは、と笑うと、白く染まった息がまるで空気に溶けるみたいに立ち上る。
オレのと、の。
重なって、交わって、溶けていく。
「手、もう痛くねえか?」
「大丈夫です。実は隠しアイテムが」
「隠しアイテム?」
の手が、ポケットから出てきて、そこに握られていた小さな袋。
じゃん!ホカロンです。と、あまりにも得意げなその顔はちょっと、面白かった。
「おい、ちょっと貸してみ?」
「え、ちょっとだけですよ」
「おう、一瞬。すぐ返す」
オレに手渡すとき、はい、と、向けられた笑顔。
小さな温もりの上、不意に触れた指先は、ぽかぽかと、暖かくて。
――暖かくて。
思わず一緒に握りこんだ、の隠しアイテムと、の小さな、手。
初めて意思を持って触れた温度に、来るべきときが来た、みたいに、自然と気持ちが、声になった。
「好き、なんだけど」
「……え?」
「が好きだ。付き合ってくれねえか?」
オレの言葉の後、独特の、のんびりとした間があって、そして。
目線を下に動かすと、あの顔が、目に入った。
「はい」
その声に、顔に、全てに、いつだって恋をしていた。
だから、嬉しかった、とても。
幸せに、白く色づく息を目でたどりながら。
ホカロンをの手ごと、オレのポケットに突っ込んだ。
知り合って丸7ヶ月、の髪が肩にとどいた、ある秋の日。
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