全てを、持っている男だと思っていた。

テニスを真剣に志すものなら、誰もが手にしたいと思う、その“選抜選手”という地位。
筋の通った人柄が集める、信頼や人望。
テニスはもちろんのこと学業だって怠りなく、あらゆる記録に刻まれる実績。

その広すぎる背中には、選ばれた者しか得ることのできない肩書きが、所狭しと刻まれている。



羨ましくない、といえば嘘になる。妬ましい感情を持ったことなんて、数えたらきりがない。



でも、なによりも羨ましいと思ったのは、その男に、一身に注がれている愛情。
男曰く、「恋人ではない。彼女は大切な人間だ」という、女性が男に向ける、視線、声、それらが持つ、暖かな温度。
何度も何度も、欲しいと思った。
あんな風に愛されたい、と、苦しいほどに。

これが恋愛感情か、と聞かれても分からない。
ただ、真田の大切な人間が、俺にとって特別な人間である、という自覚はある。

苦しいほどに、欲しい、と思うこの感情は。

果たして、何と呼んだらいいのだろう。






【差し込む夕日が、オレンジ色に染める場所 ―2―】






下校途中、並んで歩くスピードは、いつもわざとらしいほどに遅い。
伸びる影を見ても分かるように、俺と彼女の間には相当の身長の差があるが、原因はそこではない。
それを証拠に、たまに彼女のほうがもどかしげに、俺を振り返る。

「…ねえ、蓮二。そんなにゆっくりじゃなくても大丈夫だよ?」
「そうか?だが、そんなに急ぐこともないだろう」
「それはそうだけど。でもちょっと歩きにくい」
「そのくらいでいい。大事をとっておかなくてはいけない」
「……みんな、心配しすぎ」

みんな、というのは、無論。
俺や友人、家族、教師も差すのだろうが、おそらく一番には、真田弦一郎。
彼のことだろう。

「なんだ、分かっているのだな。特にあいつは心配している。しすぎるほどに」
「……」
「分かっているなら、諦めるんだな。もどかしくても耐えることだ」

そう言うと、彼女は少し頬を膨らませて、つまらなそうに地面を蹴った。
荒っぽく見えるその動作とは裏腹に、その足は驚くほどに細く白く、頼りない。
こういうときに、俺は深く思い知る。
彼女はほんの数ヶ月前まで、明日があるか分からなかった人間なのだ、と。







彼女の病気を知ったのは、今からおよそ1年前、高校生になって迎えた2度目の夏のことになる。
忘れもしない、あの日は、部活で全国の大会のレギュラーメンバーの発表が行われる日だった。
まだ2学年だった俺は地区予選ですら補欠止まりであったから、
今回も良くて補欠だろうと分析し、半ば諦めの気持ちでその日を迎えていた。
中学と高校のレベルの差は相当なものだと知ってはいたが、これほどまでに違うものか、と。
諦めとも、絶望とも着かない感情が渦巻いていた時期だった。

学年ごとに整列したその場所で、先頭に立っていたのは幸村、その後ろに真田、そして、俺。
後には、柳生、ジャッカル、丸井、仁王と続き、そこまでが同学年で補欠入りの経験のある者。
その中でも、幸村は最初大会から今まで漏れることなくレギュラーで試合に出ていて、
真田は最初の大会を除き、やはり同様にレギュラー落ちしたことはない。

目の前に、まるで立ちはだかるような背中を見て、思う。
かつて立海三強と呼ばれた三者のうち、2人は今でも不動のレギュラー。
彼らの周りではプロの話も当たり前のように出ており、今もなお加速度的に実力を上げている。
しかし、残る1人は――俺、は――良くて補欠、という有様。
成長していないわけではない。中学のときと比べ、体力も筋力も、もちろん試合経験だって向上しているはずだ。

それでも俺だけ置いていかれたような気がするのは、俺の成長が周りより劣っているからか。
それとも、2人が特別な人間、なのか。

選ばれる者と、選ばれない者。
その差はいつ、何が原因で生じたのだろう。
記憶を辿ってみても、いつだって確定的な瞬間を特定することはできない。
もしかして、産まれたときから決められていたことなのではないか、とも思う。
それならば、俺も、選ばれる側として産まれてきたかった。
目の前の、この男のように。

羨んでも仕方ない。俺は柳蓮二であって、真田弦一郎になりうるわけがないのだから。
そう思っても割り切れない感情は日ごとに膨らんで、少し、息苦しかった。



レギュラー発表は淡々と行われた。
まず呼ばれたのは、3年生が4人。次いで、幸村。

当然、次に呼ばれるのは弦一郎であろうと、おそらく誰もが思っていた。
ここのところ、珍しく調子を崩しているようではあったが、それでも部内におけるその実力は抜きん出たものであるし、
最初の地区予選だけは補欠だったものの、それ以降はずっとレギュラーで来た男だ。
そして何よりも、今まで名前が挙がったもの以外に、弦一郎を負かすことが出来る者はいない。

監督が口を開く。
発せられる名前は分かっているのに、鳴り響く鼓動がわずらわしい。
俺の実力では補欠がせいぜいであると頭は理解しているのに、いつも、心のどこかで思ってしまう。
確率は低いが、ゼロではない。もしや、俺が――。

しかし、驚くことに。
呼ばれたのは、弦一郎じゃない。

「次。2年、仁王。そして最後、」

辺りが、ざわめく。
俺の心臓も、更に速度を上げた。

「…同じく2年、柳。以上だ」

結果は、低い確率のほうに転がった。
こんなの、あり得るはずが無い。
呼ばれたのは、弦一郎では、なかった。






先輩が出るのを待って、部室に入る。
そこにはマネージャーが用意したらしいレギュラー用の真新しいジャージが2つ、仁王と俺のロッカーの前に並んでいた。
嬉しいよりも、ただただ驚いて、なんだか不思議な光景だ、と、そのジャージを手にしたのを覚えている。

「…仁王、蓮二、おめでとう」

同級生が集まり始めた部室内、声に振り返ると、入り口で扉を支えているのは、弦一郎だった。
誰よりも勝利に執着する男なのに。
誰よりも強くあろうとする男なのに。
結局、補欠にすら名前の挙がらなかった弦一郎は、なぜか納得したような表情で仁王と俺に賞賛の言葉を告げる。

「弦一郎、なぜ、」

おまえがレギュラーではないのか。
あまりにも不自然な問いが口をつきそうになって、慌てて飲み込む。
そんなこと、弦一郎に聞くべき問いではない。落とされた者、が答えるべきことではない。
しかし、そうと理解していても思わず質問を投げかけてしまいそうになるほど。
弦一郎は、全てを悟ったように、そこに立っていた。

「なぜ、か…」
「何かあったのか?弦一郎」
「…いや」

言葉を濁すようなその返答に、俺は眉を寄せる。

「どうした、弦一郎、お前らしくもない」
「俺らしい、か…」

そして、大きくため息を1つ。

「…蓮二、こんなめでたい日に恐縮だが」
「何だ」
「これから時間は取れるか。おまえに聞いてほしい話がある」

緊迫したような、それでいて弱ったようなその様子に俺は息を飲む。
妬ましい感情はあれど、それ以上に、俺は弦一郎を信頼し、尊敬すらしていた。
断る理由など、どこにあるというだろう。

「もちろん、かまわない」
「…ありがとう」

返された、弱々しい笑顔に思う。
ああ、こんな弦一郎は、初めてだ。






空には月が登り、星が輝いていた。
帰り支度を終えた弦一郎と俺は、ナイター設備の照明が消されたテニスコートで話をすることになった。
改まって場所を変える必要は無いが、静かな場所が良い、と、弦一郎が選んだ場所だった。

「蓮二」

弦一郎の低くよく通る声は、いつもよりもわずかに堅く、誰もいない校舎に小さく反響する。
相槌は打たなかった。そんなことしなくとも、俺が聞いていることは明らかだ。
弦一郎は、まるで出口よりも大きなものを無理やり外に出すみたいに表情を歪めたけれど、それは一瞬だった。
戸惑ったものの、決意はすぐに固まったのであろう。口を開くその動きは、いつものそれと変わらなかった。

「昨晩、彼女の長期療養が決まった。命に関わる病気だそうだ」
「な…」
「発病後、半年の生存確率は7割、1年で4割、3年で、3割」

淡々と語られる言葉に、どくり、と、心臓が嫌な音を立てる。
それは弦一郎の鼓動だと思ったが、さすがにそれが聞こえるはずはない。紛れもない、俺の鼓動。

「…5年で、2割」

脳裏に、彼女――弦一郎の大事な女――の姿が浮かぶ。
それは、彼女が検査入院に入った数週間前、隣のテニスコートでラケットを振っていた姿だった。
まさか、あの彼女が。
活発で運動神経もよく、弦一郎と同様、テニスではプロの話もあった彼女が。
人一倍健康に見えた彼女が。

「もし、その2割に選ばれたとしても、二度と今のようにテニスをすることは出来ないそうだ」
「…本当、なのか」
「……俺も、聞いたときは我が耳を疑った。だが、事実だ」

暗がりの中、弦一郎を見る。
その表情はいつものそれのまま微動だにしないけれど、弦一郎を包む空気が、絶望、という感情を漂わせていた。

「……なあ、蓮二…」

乾いた声に、視線で頷く。
弦一郎はもう一度、大きくため息を吐いてから、また何かを振り絞るように口を開ける。
そして俺は、そこから出た言葉に、眩暈を覚えた。



「彼女を、見ていてはくれぬだろうか」



彼女を、見る。
なぜ俺が。

普段のそれからは考えられないような柔らかい視線で彼女を見つめるのに。
大切な人間だ、と、あんなにもきっぱり言い切っているのに。
なぜ、自分でしない。なぜ、俺に頼む。

「弦一郎、それは、どういう」

どういうつもりなのだ、と聞こうとしたが、遮られた。
「蓮二」と、弦一郎が俺の名を呼ぶ。

「蓮二、俺は……俺は今、テニスの海外留学に誘われている。だから、部活の全国大会は辞退した」
「そう、だったのか」
「正直、迷った。この状態で、彼女を置いて行くなどできるものか」
「…弦一郎」
「しかし、俺は、」

頭の中の埋まらなかったピースが、次々とはまっていく。

  ああ、そういうことか。
  選ばれる人間が選ばれなかったのも、こうして、大事なものを他人に頼むことも。
  らしくない行動は、全て。

次の言葉など、聞かなくとも分かっていた。
でも、俺は待った。
弦一郎の決意を、受け止めねばならない、と思った。

「俺は、行く。すべきことをするまでだ」

すでに決意を固めたその声に、俺は体が震えた。



弦一郎は全てを持つ男で、全てを諦めない男。
ああ、だから。
だから、選ばれる人間、なのかもしれない。

「弦一郎、返事をする前に、1つだけ確認したい」
「…何だ」
「己の言っていることの意味は理解しているな」
「どいういう、意味だ」
「…大切な人間を、他の男に託していく、という意味だ」

弦一郎は、俺を射抜くように見た。俺も、視線をそらすことはしなかった。
沈黙が流れ、空気は緊張の色に満ちる。
それを壊したのは、弦一郎のわずかにくつろいだような声だった。

「分かっている。だから、お前に頼んでいる」
「弦一郎、」
「俺は信頼している。彼女も、そしてお前、蓮二も、だ」



「蓮二、彼女を、頼む」



真っ直ぐな目に、決意から紡ぎだされた言葉に。それを形どる、強い心に。
そして何より、真っ直ぐに向けられた信頼に。
俺は頷く以外、何ができたというだろう。



「…分かった」






夕日に照らされた、透き通るように白い横顔を見る。
彼女の最初の手術の成功を見届けてすぐ、弦一郎はここを去った。
それからもう、1年。

弦一郎によれば、1年生存率は4割――彼女は、その4割に選ばれた。
彼女も弦一郎と同様、選ばれる人間だった、ということだろうか。
その上、驚異的な回復力で数ヶ月前から学校に復帰し、今では他の生徒と変わらない生活を送っている。

「…そろそろ、帰ってくるな」
「え?」
「弦一郎のことだ」

ああ、と何気く答えた彼女の肩がびくりと揺れたのを、俺は見逃さなかった。
彼女は弱音を吐くような人間じゃない上、手紙も電話も十分すぎるというほどに届ける弦一郎であったから、
彼女はこの1年、一度も不平不満をこぼしたことは無い。
だが、それでも。体が震えるほどに、心が揺れる、ほどに。

彼女は待っているのだ。弦一郎を。
強く、それは切ないほどに。

常に心の中にあるだろう離れているという不安を振り切るように、照れた気持ちを隠すように。
彼女は歩みをにわかに速めた。
俺は慌てて、その腕を掴む。

「待て」
「…大丈夫だよ、蓮二」

細い、どこまでも細いその腕に、体が熱くなる。
こんなにも儚い彼女なのに、圧倒されるほどに強く、弦一郎を想っている。
彼女の何かを動かすことが出来るのは、近くにいる俺ではない。
遠く離れた、大切な、人間。

「待て。そう急ぐな、俺が怒られる」
「……大丈夫だって」
「これは、弦一郎との約束だ。破るわけにはいかない」

掴んだ腕を、そっと放す。
手のひらに残る彼女の体温は、一瞬で、消えた。
遠く離れた弦一郎の手には、消えない彼女の体温があるのだろうか。
こんな状況で、離れてもお互いを想い合える、その強さが保つ、愛情、が。



「…行くぞ」



なあ、弦一郎。
お前の大事な人間は、今、ここで、夕日が辺りを染めるこの場所で、お前を待っている。
だから、早く。早く帰って来い。

  約束は破らない。
  しかし。
  信頼を裏切らない自信は、もう、あまり、ない。

欲しい、と願うこの感情は。
何と、呼べば良いだろう。






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*これだけ長い2話目に、主人公の女の子が出てこなかった、という失態。
 本当にすみません…。ついでに、タイトルのオレンジと蓮二は決してシャレではないんです、偶然なんです…