どうして。
叶わないと分かっていながら、誰かに恋をしてしまうんだろう。
どうして。
思考では抑えきれないほどの感情を、抱えてしまうんだろう。
世の中は、不合理だ。
初めから、決まっていればいいのに。
この人の相手は、この人。
あの人の相手は、あの人。
初めから、自分を好きになってくれる人しか、好きになれないようになってたらいいのに。
そうだったなら。
きっと、こんなに辛い思いをすることはなかった。
私も、柳も。
【差し込む夕日が、オレンジ色に染める場所 ―1―】
私のクラスの教室は西側にも窓が並んでいるから、夕日の時間は空気がオレンジ色に染まる。
この色に染まると、途端にこの場所は、とても静かになって、時間の流れは少し遅くなって。
そしていつも、胸が苦しくなるほどの切なさが溢れる。
「今日も遅いね、あの子」
私の隣の席に座って、文庫本を広げているその人に、声をかけた。
何気なく、まるで今日の天気を確認するみたいに言ったつもりだったけど、私の声には少し、不機嫌の色が混ざってしまった。
慌てて、だけど大袈裟にならないように、横目で隣を確認するとそこには、眉1つ動かない綺麗な横顔があった。
「そうだな。委員会が長引くかもしれないと言っていた」
相槌を打つみたいに、自然とそんな返事が戻ってきて、ああ、そういえば、と思う。
ああ、そういえば。
隣に座るこの人は、きっと私の一挙一動になんか、全然興味もなくて。
ちょっと声が上ずっても、たまに手が震えても、目を泳がせたって。
全然、全く。気にも、留めないんだった。
隣のこの人、は。
柳蓮二の視線の先には。
いつだって、あの子がいるんだから。
オレンジ色の中、柳と二人。
私は、目の前に広げたノートにため息を落として、全てを放り投げるように持っていたペンを転がした。
かちゃりという乾いた音は、静寂をほんの一瞬壊したけど、すぐ、どこかに吸い込まれるように消えていった。
それでも、私の中にある柳への気持ちは、静寂の中でもなお根強く、身体を振動させるほどの鼓動は、収まることはない。
収まれ、と、どんなに願っても。
「…なんで平気なのかな」
「何がだ?」
「あの子、柳のこといっつも待たせて。柳だって、部活で疲れてるのに」
明らかに嫉妬から出た自分の言葉に、涙が出そうになる。
柳を気遣ってるようなことを言いながら、本当は。本当は柳の隣を歩くあの子が、羨ましくてたまらないだけだ。
あの子を見つめる柳の目が優しすぎて。どうしようもなく、悲しい、だけだ。
いっそ、素直になれたら、と何度も思った。
好きだって、大好きだって言うことができていたのなら、何かが変わったのかもしれない。
少なくとも、今よりほんの少しは、自分を好きでいることができただろう。
でも、そんなことをしても、絶対に叶わないことくらい、分かっていた。
柳の目に私を映すことなんて、絶対に。
それでどうして、素直でいられるだろう。
叶わない思いに素直になるなんて悲しすぎる。
私には、できなかった。
「…柳の時間は、柳のものなのに」
私の言葉に柳は顔をしかめて、そして、目をそらした。
そらされた目が悲しくて。私も、柳から視線を外すように、外に目を移した。
でも、目をそらしても。柳が私の言葉に不機嫌になったのに、見ないふりを、しても。
「気にするな。俺がしたくてしてることだ」
言葉は、追い討ちをかけた。
悔しくて、苦しくて、私は崩れそうになる表情に、力を入れた。
締め付けられた心に、ぐっと力を、入れた。
なんで、こんなにも。
柳が好きで好きで、たまらないんだろう。
きっかけなんてもう、忘れてしまったけど、ただ、好きで。どうしようもなく好きで。
こっちを向いて、私を、見て。
私を。私を、好きになって。
バカの一つ覚えみたいに繰り返し心の中で唱えるのは、もう、思い出せないほど遠い日からの私の癖。
オレンジ色が、目に染みる。
でも、あの子が来て、柳がこの教室から一歩を踏み出すまで、それまでは。
絶対に涙なんか流すもんか、と、唇を噛んだ。
痛くなるくらい、ぐっ、と。
「…遅い、ね」
「そうだな」
柳は、遠くを見て、小さく笑った。
いくらでも待つ、とでも、言いたげに。
「優しいんだね、柳は」
「違う。知っているだろう」
「…うん」
「約束は守る。それだけだ」
「……うん」
何かを決意したみたいな、柳の口調に、私の、喉の奥のほう。チリチリと痛みが走る。
私がどうしようもなく柳を好きなように、柳も、あの子を。
あの子のことを、思っているのだ。それは、強く、強く。
「ねえ、柳の言う……約束、って、」
ねえ、柳。
どうして、決意が必要なんだろうね。好きな人を、好きでい続けることに。
「約束って、あの子と?それとも…」
どうして。
「真田くん、と?」
どうして、叶わないと分かっていて、捨てることができない、んだろうね。
私の言葉に、柳は読んでいた本から視線を離した。
目が、合った。
柳は何も答えなかったから、相変わらずここは静かで、穏やかで。
でも、心臓だけはやたらとうるさかったから、やっぱり、どうしようもなく切なかった。
痛いくらい、切なかったから。胸が、詰まった。
「お待たせ、蓮二」
静寂を破ったのは、透き通るような声だった。
教室の後ろの扉を振り返ると、あの子が立っている。
ああ、柳が行ってしまう、と思った。
今日も、当たり前に、いつものように。柳は、行ってしまう。
「ああ、遅かったな。帰るか」
「うん、待たせてごめんね」
2人を視線から外すみたいに、身体を黒板に向ける。
隣の柳が、鞄を掴んで立ち上がったのを、気配で感じていた。
「…じゃあな、」
柳の声にも、私は振り返らない。
ばいばい、と。泣きそうになった表情を隠して、声だけは気丈に振舞った。
きっと、私の顔なんか見なかった柳は、何事もなかったように、行ってしまった。
――両方、だ。
すれ違い様、そんな返事を、かすかに残して、行ってしまった。
一人きりになったオレンジの教室で、ぼんやりと視線を向ける先には、1つの机がある。
ここには、いくつもの同じようなものが並んでいるけれど、私は目に映る1つの机だけが、特別なものに見える。
例えば、机の中。
ほとんどが用のない教科書でぎちぎちに埋まっているのに、そこだけは空間が出来上がっていることとか。
例えば、その高さ。
このクラスにある机の中で、結構高いほうだって、こととか。
そんな些細なこと全てが、柳のものだというだけで、全部特別に変わる。私は相当、おかしくなってしまった。
「両方って、何よ」
独り言は、涙を含んで不細工だった。
あの子の声は透き通っていたのに、私の声はかすれている。
「どうして、真田くんって、言わないのよ…っ」
いつも、涙をこぼすことができるのは、オレンジの教室に落ちる影が、私一人分になってから。
柳さえ、いなければ。柳とあの子が行ってしまいさえすれば、私は涙を我慢なんてしない。
でも、いつだって、ちっとも楽になんてならないんだ。
ねえ、本当に、どうして?
叶わないと分かっていながら、誰かに恋をしてしまうんだろう。
思考では抑えきれないほどの感情を、抱えてしまうんだろう。
世の中は、不合理だ。
初めから、決まっていればいいのに。
この人の相手は、この人。
あの人の相手は、あの人。
初めから、自分を好きになってくれる人しか、好きになれないようになってたらいいのに。
そうだったなら。
きっと、こんなに辛い思いをすることはなかった。
私も、柳も。
柳の好きな、あの子、は。
柳が視線を向ける、あの子、は。
今は遠くに留学している、真田くんの。
真田くんの、大事な、大事な人、だ。
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